この度の想像を絶する悲惨な事件に、言葉を失うほどの衝撃を覚えています。不条理な出来事で、いのちを奪われた19人の方々、傷つけられ恐怖に慄き今もなお心身ともに苦痛を抱かれた方々に、心からの哀悼の念とお見舞いを申し上げます。園長先生、職員の皆さまのご心痛、押し寄せるような多忙な時間は察して余りあります。
こうした事態を前に、私は専門的福祉人材を育てる大学の立場、長い間、知的に障がいを持つスペシャルオリンピックスのアスリートたちとの交流をとおして、殺人者にはもちろん、彼の思想に共感を覚える人々にも危惧を抱きます。
今世紀初の権利条約は、「国連障害者権利条約」です。日本でも2014年2月19日に発効しました。この十条に「生命に対する権利」が明記されています。”全ての人間が生命に対する固有の権利を有する”と。この条約が理解されず、無視され、障がいのある人の尊厳を犯し、排除する思想と行為が、今回の許しがたい事件です。条約を実効性のあるものに人々が心から願うメッセージであると考えます。
ところで、障がいのある人は役立たない無用な存在と言えるでしょうか?
今日、日本は4人に1人が高齢者です。どんなに心身ともに健康でありたいと願っても、加齢は容赦なく視力、聴力、咀嚼力を奪い、骨は変形、骨折、圧迫し、車椅子や何らかの補助具を必要とします。「障がい」は、誰にでも経験する当然の出来事です。他人事ではなく、私自身の姿です。
スペシャルオリンピックスのアスリートたちと交流するたびに、育てる者と育つ者の間の心と心を響き合わせつつ、愛情と信頼を重ね、スポーツのルールを身に付け、重度の障がいのある人を支え、相互に成長と発達を促し合っていく姿を知ります。親もコーチもボランティアも、この人たちと出会えてよかったと、幾度も幾度も学び、感謝します。
いのちの価値は、貨幣的価値や「できる、できない」といった偏差値で考える程、単純ではありません。「生きている」そのことに価値があります。
歴史を振り返りますと、財のある者、知識や学歴、社会的な地位がある者によって動いていたのではなく、名も無いままに没したり、病い、飢え、障がい、貧困等々、多様ないのちの営みが歴史を担ってきました。一人ひとりが歴史を紡いできた存在であることを確認したいものです。一人ひとりのいのちに謙遜に頭を垂れることが、「共生社会」の根源に求められているのだと思います。
多くの流れた血を、ひとつの事件性のなかで終わらせてはならないと思います。
各々の持ち場、立場の中で、障がいがあろうと、老いていようと、幼い者であろうと、胎の中にいる時から歴史を創造する大事ないのちであることを共有し、お互いのいのちの恵みに尊敬と愛を込めて歩みたいと、ひたすらに願うものです。
スペシャルオリンピックス日本・熊本